「自分」




【きっかけ】

“わたしが生きて、これ(創作)をやるのは、「自分」を認めさせるためでもなく、自分の正しさを誇示するためでもない”という気付き。


【着想】

「自信」を制作することは、"自分とはなにか?"というテーマに向き合うことでもあった。
自分を信じるとはなにかについて考えているとき、そもそも「自分」というものが軸になっていることに気がついた。自信について向き合う道中で、
"自分とは何か。頭ではつかめないが心ではなにかあると感じている。それを頼りに生きている、これ(自分)を信じられないと不安になるのだ" という仮説を得た。
そして、そもそも、"生きるというのは、自分として生きるということであり、人はみなそれぞれ違う人間、つまり違う自分を生きている"ということに気がついた。
生きることこそ生きてすべきことである。人はそれぞれなにを楽しいと感じるか、つまり何によって生きている実感が湧くかが違うのだ。

また、「生きる」を制作する時に抱いた「なぜ人は人と生きるのか」という疑問へひとつの気付きを得た。"わたしたち人間は同じだから一緒にいるのではなく、ちがうから一緒にいるのだ"ということである。

わたしはこれまでの思考の癖として、すべてを普遍的に捉えようとする傾向があった。つまり、自分だけでなく、すべてに共通するものばかりにこだわっていた。これは結局「正しさ」を探していたということだろう。当然「生きるということ」についても普遍的な答えを探していた。だからこそ、限界を感じていたし、息苦しさを感じていた。
しかし、「自信」の制作を通して、自分に向き合い始めたとき、普遍的・正しさどうこうでなく、"わたしにとって"生きることとはなんだろうか、"わたしが"生きてやりたいことはなんだろうか?という個人的な部分に思考が向くようになりはじめていた。その表れが「自分」を制作するきっかけとなった、あの気付きであろう。
このように、普遍性と正しさを常に求める姿勢から、自分にとってどうなのかという個人的な感覚を第一にとらえる姿勢を取るようになったのは、わたしの人生の大きな転換点であったといえる。
わたしはようやく、答えがない世界で生きることを、自由を、楽しみ始めたのであった。そして、思考の限界を超えた自由な創造へ手を伸ばしはじめた。


【構想】

“人が幸せに生きるには、基準を自分に合わせること”

それぞれ違う「自分」というものの存在に気づけたことは、かなり重要なことであった。人はそれぞれ異なる自分を生きているんだ。この自分こそがすべてである。これに気づいたとき、わたしは、「自分」というものがいかに謎めいていて、壮大なものなのか…とてつもない神秘を肌で感じた。「自分」は言葉で表せきれるものではないと感じ、イメージで考えることにした。

そうして、自分というもののとてつもなさに胸をドキドキさせながら、私はお風呂に入った。
自分かぁ。自分ってそういえば何なんだろうな、すごいなぁ。。なんてことを思いながら、シャワー。洗顔…。もこもこもこ、泡が立っていく…… ハッ!自分って、こういうものなのでは?上からもっちり泡、下にももっちり泡、どこにでも泡がある。ネットを立てればもこもこと増えていく、この感じ、まさに自分なのでは?!
「自分」は「自を分ける」と書く。全てに自分は行き渡っている。でも他の人とは違うものであって。
とにかく不思議で不思議でたまらないが、とにかく重要なものである「自分」をわたしはとにかくにみた。そして、そこからはさらに「自分」へのイメージがもこもこと泡のように湧いてきた。




【制作中】

はじめの案にはなかったが、この自分という絵にはなにか文字を入れたいなと思った。それは、「自分」というものは、文字や言葉によって作られるとても人間らしい概念だと感じていたからである。キャンバスに下書きをしたところ、ちょうど山のような部分にスペースができたため、そこに文字を入れることにした。
なんの文字、言葉にするか…。なんとなく""という言葉が浮かんできた。うむ、星、か。文字の成り立ちでも調べてみるか。星…日:空に浮かぶ火の玉+生:根(土)から生える、という形象文字の組み合わせ…。星は空に浮かぶ光なのに、土から生えているという意味の"生"が入っている!?なんてミステリー!この矛盾こそ、これまたまさに「自分」のようなものだあ!ということで入れる文字はに決定。さらに、星の旧字体を調べたところ、晶+生で成り立つ文字であり、こちらのほうが空に浮かぶ火の玉がたくさんあるということと解釈でき、より「自分」らしいと感じたため、こちらを採用した。

手についてもこだわりがあるので簡単に述べよう。この手と同じポーズをしてみてほしい。すると、手のひらが内側、つまり自分の方を向いているとわかるだろう。ここ、ポイントだ。


【制作中.2】

着想がけっこうすぐに浮かんだこともあり、順調にできた…と思いきやそうではない。
2023年の11月から12月にかけて描き、一旦完成はしたのだが、なんか納得いかなかった。
バランスが取れすぎていて、神妙。なんかさみしい絵だなと思った。
そこで、2024年年明け、コミュニケーションⅢの絵とともに再着手したのだが、そこからがとてつもなく苦労した。何度も何度も塗り直し、でもしっくりこず。しかし、どこからか聞こえてきたけん玉という声に従い、けん玉を描いてみたところ…唐突にしっくりきた。ああ、「自分」というものはなんとナンセンスなものだろうか…。



【振り返りと学び】

この絵から学んだことはたくさんある。
まず、これは個人的なことだが、この作品を作ることで、「自信」というテーマで悟った“自分を信じることの気楽さ”が心で理解できた気がする。制作する中で、自分という存在の不思議さと果てしなさを感じたし、それに感動した。自分を信じるだけでなく、自分を楽しむことや自分の中にあるあらゆる可能性を愛せるようになった。少なくともこのときしばらくは。(人は何度も同じ学びを繰り返すものだ…。)ともかく、この絵を描き、自分と向き合うという経験を経て、“自分に自分を託す”という感覚を得た。

そして、“自分とは何か”について。制作を通してわたしにわかったのは、自分というものは、すぐにはっきりわかるような“明快なもの”ではなく、わからない、だけどなんかおもしろいものということある。
生きるということは、自分を生きることに他ならない。そんな「生きる」ということを考える上で核となる「自分」というものは、なんとなくおもしろいが決して掴めはしないものなのである。つまりです、生きる上で大切なのは、やっきになって答えを探すのではなく、その分からなさを、余白を楽しむことと言えるのではないだろうか。また、わたしは、すぐに答えを欲しがる姿勢とは、他人(自分の外)に感動を求める姿勢だと考えている。しかし、自分を生きる限り、最も美しい感動は常に自分の中にあるはずである。

この、よくわからないが大切な「自分」にたくさんの愛と感謝を注ぐこと。そして、その無限大の可能性を楽しむこと。生きる上で必要なことは、これだけかもしれない。
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