「Communication Ⅲ」




作品ページ
【着想】

コミュニケーションⅠⅡのふりかえり前半にて描いたが、これは“胸のあたりに顔がある身体”という形象の可能性を模索していたときに偶然見つかった形象。この絵は、形象…この線と線が織りなす形がすべてである。この形が偶然見つかったとき、それはそれは驚いた。なんてエクスタシーを感じる形だろう、これこそまさにコミュニケーションだ!と。
communicationⅢの形象発見の瞬間。左下にご注目
一方、形がすべてであるため、絵画にしたときの色の組み合わせにとても苦労した。なかなかなかなか納得の行く色合いができず…。模索する中でも、この線の生み出すものには心を打たれ感動した。やはり色はあまり関係ないのだろうか。


【制作の苦悩】

2023年9月から制作し始めた作品だったが、結局年内は納得の行く色合いを生み出せず、年が明けた。正月の帰省からひとり暮らしの家に戻り、わたしは2023年に描いた作品を眺めていたのだが、やはりこの子、コミュニケーションⅢの絵には、書き直してくれと言われているように感じた。そうだな、コミュニケーション三部作のラストであり、真のコミュニケーションを表すものがこれでは締まらん!じゃあ、お主を2024年最初のキャンバス作品にしてくれよう!と早速制作に取りかかったのであった。

意気揚々と取り掛かったはいいが、まァーたもや難産難産!なんかエスニックな色合いになっちゃったりしてイメージとちがうものになっちゃったりして、もう投げ出したくなりました。
HAAANN MOUDOUSITARAIINO!?!?!と言い、あぁもうこの絵は、そもそも線が大事なんだ!!線以外白く塗ったれ!!と、線以外全部白で(半ばやけくそに)塗っていった。
でもその時、こころのどこかで“それでいい、白で塗ってみればわかる”って言われていたのだが。とMOかくMOO!!!とPUNPUNしながら塗っていった。顔の部分はなんとなく塗らず、それ以外を白で塗り尽くしたが、やっぱり、あんまり納得いかなかった。いや納得いかないんかい!
それで、モー見たくない!コミュニケーションなんてわからん!描けん!と、この絵を八つ裂きにしたくなったが、それはできずに結局この絵は放置していた。

その2日後、姉と父が家に来る機会があったのだが、そのときにふたりがこの絵を見て、とても好意的な反応を示してくれた。わたしはそれにものすごく驚いた。自分では混沌にみち、なんだかわからなくなってしまっていた絵であったからだ。ほかの人には、全然ちがう見え方をしているんだと気づいた。

いい反応をもらって以来、自分でも日増しにまあ悪くはないかもと、この絵を受け入れられるようになっていった。うん。この経験から私は気づいたのだ。


【学び】

その経験から気づいたこととは、“自分の中の自分ではいいと思えないところや自分の嫌いなところも、他人から見れば好ましかったり、いいところと思われていたりする可能性がある”ということだ。そして、“他人からの肯定によって、より自分を受け入れられるようになったり、自分を好きになったりすることがある”ということである。
まさにこの動きこそ、交換と変化、存在の受容と肯定であり、つまりコミュニケーションの真骨頂である。これこそまさにコミュニケーションⅢが表すことではないかと!!

また!さらに!
この子をしばらく飾っていて気がついたことがある。それは、作品ともコミュニケーションすることが可能であることである。作品や人の個体差はあると思うが、わたしの場合は飾ってだいたい一週間くらいすると、その作品がものすごく語りかけてきているのがわかる。ものすごく“存在していること”を感じる。でも何を語りかけてきているかはわからない。そして、二週間経つと、ある日突然その作品の伝えたいことがわかるのだ。自己紹介されていたことがわかる。自己紹介を感じることができたとき、その作品と仲良くなれた、友だちになれたと思うのだ。
そして、今回このコミュニケーションⅢの絵もコミュニケーションについてとてもおもしろいことを教えてくれた。


【コミュニケーションとは】

“真のコミュニケーションとは、そのコミュニケーションをしている人の間でその人々にしかわからないものが存在していることである”

真のコミュニケーションが達成されている状態とは、コミュニケーションをとる人の間で、その人たちにしかわからないものが存在している状態であり、それは他の人に共有したり、言葉で説明したりすることは出来ないものである。ゆえに、真のコミュニケーションとは二者間で起こりやすいものと考えられる。そして、このコミュニケーションは家族、恋愛、友人という関係性のカテゴリーには縛られない

また、その二人または人々にしかわからないもの/彼らの中だけで共有しているものは、彼らにとって自分の一部である。それは、それぞれの、他者と共有されえない個人的な部分が混ざり合ってできたものである。
つまり、二者間でのコミュニケーションを例にあげるが、“個×個⇒二人としての個”というわけである。
それは、その二人以外からみればとても(=超)個人的なものであるが、その二人のうちのどちらかからみれば、二人で共有しているものだから非個人的な、個人的を超えたももある。
両方の意味で、“超個人的なもの”なのである。
そして、これこそコミュニケーションⅢが表すものである。これは、であり、真のコミュニケーションである。

この絵と仲良くなれてから、この絵を見るととても安心するようになった。この絵はやさしく、わたしを包みこんでくれるようだ。
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